自分軸で生きるまでの記憶

自分軸で 生きるまで 運営者ノート

記憶を辿る

こんにちは。りゅうへいです。

自分自身の「考え」や「目標」「行動」についてしっかりまとめたい、そして僕自身の記憶を辿りたいと思いました。

この記事には、随所に「自分軸で生きる」と決意した理由が書かれています。

✓僕が過去にやってきたことは下記の通りです(2023.12月更新)

・独学で中国語検定の6級に合格

・中国SNS小红书でフォロワー12万人越え達成

・中国版YouTubeのbilibiliでフォロワー12,000人越え達成(累計動画再生回数100万越え達成)

・TikTokでフォロワー2280人越え

・ブログ開設から2ヶ月弱で0→1を達成

✓これまで継続してきたことは下記の通りです

・日記(16年)

・早起き(7年)

・SNS発信(4年、中国SNSです)

・読書(3年)

・運動(16年)

・中国語学習(4年)

僕は高卒です。大学に入ったものの、金銭的な理由で1年で退学しました。行っていた大学も有名な大学ではありません。

幼少期から個人で収益化を達成するまでの話

そして、最近になってようやく「自分の行動から」収益化できるようになりました。まだまだ初心者です。なので「お金を稼ぐ最適な方法」をみなさんにお伝えすることはできません。

コロナウイルスが流行して以来、常に自分軸で生きることを考えて生活をしてきました。その中で学んだことはたくさんあります。しかし「自分軸で生きる」と考えるようになったのはコロナウイルスだけが原因ではありません。この記事では僕の過去の記憶を辿りながら「なぜ自分軸で生きる」という考えに至ったのかを、詳細にお伝えしていこうと思います。

✓最後まで読んでもらいたい人

・現状に不満を抱えている人

・「今の状況」を変えていきたいと思っている人

・悩みを抱えている人

・どんな行動をしていけばいいかわからない人

・未来に希望を持てない人

・行動のモチベーションを高めていきたい人

あいにく、僕はこれまで順風満帆な人生を送ってくることはできませんでした。しかしそんな人生の中で、学ぶことが非常に多かったです。むしろ日々問題を抱えていたからこそ、行動し続けることができたと思ってます。そして「自分軸で生きなければいけない」という気持ちを作るに至りました。

記憶を辿っていきます。

好奇心の塊だった幼少期時代

僕が小さい時の話です。とにかく好奇心旺盛でした。自分でも覚えていることが多いです。

父は仕事だけで母が家事や育児をこなしていた

生まれは1995年の5月27日です。28歳です。平凡な家庭というよりは、どちらかというとお金に苦労している家庭のもとに生まれました。

とは言っても、父はよく仕事帰りに車のおもちゃなどを買ってきてくれました。それははっきり覚えています。お金のやりくりができる中で色々なものを買ってくれました。最初のうちは父のことが純粋に好きでした。仕事帰りに、おもちゃを買ってきてくれることが嬉しかったからです。

しかし家事や育児をほとんどすることがない父親でした。完全な仕事人間で、帰ってきたら自分の支度だけをしてすぐに寝る。そんな感じでした。

なのでほぼ全ての家事や育児は母がしていました。僕は年子の兄弟がいるのですが、2人を育てていくのは非常に苦労したと思います。まずはここまで育ててくれたことに感謝したいと思います。そして、とにかく自由にさせてくれた。「やっていいこと」と「やってはいけないこと」だけを教えて、それ以外は僕たちに考えさせてくれました。

先に述べておくと、僕が自分軸で生きていけるようになったのは「母の教育」が大きく関わっています。

ギャンブルが好きだった父

また、父親はパチンコが好きで、暇さえあればしょっちゅうパチンコ店に行って、パチンコやスロットをしていました。

一日中です。

僕も帯同したことがあります。当時は子供も一緒に入ることができたので、一緒にパチンコ店に行って待っていたり、時間を潰していたような記憶があります。パチンコに関しては母もやっていました。父ほどではなかったですが。しかし痛い経験を何度もしていることを知っていましたし、「やってばかりいるのはお金の無駄」だと思うようになったらしく、現在はかなり減りました。年に数回程度だと思います。以前、パチンコはかなり儲かったようで「パチプロ」もそれなりに多かったそう。僕の父も一瞬「あぶく銭」を稼ぐことができた時期があり、それで調子良くずっとやり続けていたのだと思います。

両親の、特に父親のギャンブル癖が強かったためにお金に苦労した場面は多かったです。とは言ってもこのように具体的に理解できるようになったのは、考えることができるようになったタイミングです。幼かった僕は「なぜお金がないのか」理解することができませんでした。そして「お金がない理由」を詳しく聞くこともありませんでした。今さら聞くようなことでもありません。なので、推測の域を抜けないんです。

「物で解決することができない」と思うようになったきっかけ

また、当時の父親はよく暴力を振るっていました。お酒は飲みません。シラフの状態でカッとなると、対話ではなく暴力で解決しようとした。暗い部屋で暴力を振るっていたあの当時の光景は、強く自分の脳裏に焼き付いています。忘れないでしょう。母親と喧嘩をすると大体暴力を振るっていました。もちろん、僕も暴力を振るわれたことはしょっちゅうありますし、年子の弟も散々振るわれていました。

わかりやすく言ってしまえば、僕の父親はどんなことも「物を与える」ことで解決をしようとし、口では説得することができず、自分をコントロールできていませんでした。言葉で説得する方法も身につけていませんでした。父は色々な物を買ってくれたりしたものの、「怠惰さ」や「定期的な暴力」に対して自分がある程度理解できるようになってからは、好きになることができませんでした。

そんな出来事がしょっちゅうあったので、「物で問題を解決するないのとはできない」というような考えが育まれたのだと思います。

責任感が強かった母、なんで?

一方で母親は、パチスロこそしていたものの、非常に責任感が強く、自分の意志を強く持っているような人です。言いたいことはハッキリと言って、やるべきことは確実にこなしていました。

今もそれは変わりません。

だからこそ、仕事をしながら「ほぼ1人で」僕たち兄弟を育てていくことができたのだと思います。しかし母親の責任感が強くなった原因を考えてみると、もともと備わっている性格はもちろんのこと、「父親の存在」が大きいのかなと感じます。

責任感を持たざるを得なかった。

そのように感じています。

車の図鑑に書かれている車を全て覚えていた「保育園時代」

僕は3歳から保育園へ通うようになりました。その時も毎日僕と弟を自転車の前と後ろに乗せて、どんな日も送り迎えをしてくれた。このような記憶も鮮明に残っています。大変だったと思います。もっと家族間で協力していれば、母親の苦労する回数は減ったんじゃないかな、今ではそも思います。

しかし過去には戻ることができないので、自分自身の学びにして、未来に活かしていこうと思いました。

当時の僕は非常に好奇心に満ちていました。車がとても好きで、街行く車を見ては指を指して「ブーブー!」と言っていました。そしてずっと車の図鑑を見ていました。母から聞いた話ですが、当時その図鑑に載っている全ての車の正式名称を記憶していたそうです。今ではほぼ全てを忘れてしまっていますが。

また先述した通り、父はお金が厳しい中でも「物」は買ってくれました。僕は父が買ってきてくれた「トミカ」や「プラレール」で遊んでいました。「トミカ」を綺麗に並べて遊ぶことが好きでした。遊んでいる時は、「遊びそのもの」に本当に集中していました。しかし母親を苦労させたのは「僕の好奇心」でもあるんです。母が目を離した隙にすぐにどこかに行ってしまう。そしてどんなものにも触ってしまう。落ち着いていることができなかったのです。僕が落ち着きがなさ過ぎたため、小さい頃はほとんど外食に行けませんでした。

ボイラー室に閉じ込められたやんちゃ坊主

保育園に通っている時は同じ年の子にちょっかいを出して泣かしてしまったり、先生を困らせたりしていました。それは日常茶飯事です。僕が何度言っても言うことを聞かないのでよく先生に「ボイラー室」に閉じ込められていました。また、保育園では「お昼寝」の時間がありましたが、その最中にもよく先生と「話」をしていました。

階段に座って。

結構めちゃくちゃだったんですよね。好奇心が強すぎて、大人の範疇を超えてしまっていたような感じです。同じ年の子にちょっかいを出していたのも全く悪気はなかったんです。周りとズレていたというか。むしろ「なんでこんなことで泣いてしまうんだろう」と純粋に思っていたような気がします。

良くも悪くも、当時から自分軸で生きることを望んでいたのかもしれませんね。

もちろん、保育園児の僕がそんなことを考えることはないのですが。

あまりにも落ち着きがなさすぎるんじゃないか・・・

しかし、そのような状況になってしまう原因がちょっとだけわかったタイミングがありました。保育園の先生にすすめられて、母と一緒に市役所の発達支援センターのようなところに通うことになったんです。異常に落ち着きがなかった状態を先生が見て、かなり心配していたのだと思います。なので、すすめられて行くようになりました。

しかし、つい最近まで「なぜそのような場所に通っていたのか」わかりませんでした。通っていた記憶はあったものの。「広いホール」のような場所で市役所の担当者とマンツーマンで何かをやっていたのを覚えています。とは言ってもよくわかっていなかった。なので母に聞いてみたんです。

僕は当時「ADHD」と診断されていたということでした。最近では、「この単語を使えば何をやってもいいと思ってるでしょ」という雰囲気がありますね。しかし発症経験がある人はわかると思いますが、発症者は悪気があって行動をしているわけではないんです。そして大人になればなるほど、発症者自身も悩むようになります。物事の判断がつくようになるからです。僕は小学生の低学年くらいまで、ADHDの症状が残ることになります。

子供ができた時に何ができるんだろう

未来の自分に対して伝えたいことなのですが、仮にADHDの症状が見られる子供を育てることになった場合、「子供の気持ちを考え続ける」ようにしていきたいなと思っています。考え続けることは家族間で苦労することにもつながります。答えのわからないことに対して考え続けることになるから。

そして考えても「果たしてよくなるのか」、それが分からないから。母も「本当に大変だった」と言っています。しかしそこで「育児放棄」をしてしまうと、子供の成長が危うくなる。未来が危うくなる。

「考え続ける」という行為を大人がすれば、無知な子供でも感じ取ってくれると思うんです。当時の僕はもちろん何もわかりませんでした。しかし大人になって自分軸で生きるようになってから「母に対する感謝の気持ち」が芽生えました。ここでも継続することの重要性を感じ取ることができると思うんです。どんなことにおいても「何かをやり続ければ」何かしらの形になって返ってくる。

子供は見ていないようで見てる

子供は子供なりに大人を見ている。最初は「なんでお母さんが困っているのか」を理解することはできません。しかし少しずつ「自分の何かが原因でお母さんは困っているのかな」と感じ取るようになる気がするんです。僕はその感覚がありました。大人の必死さは無知な子供に伝わります。必ず。子供が「なんでか分からないけど、お父さんとお母さんいつも必死になってる」と思えば、たいていのことは解決できるように思ってます。子供は自分で成長しようとします。ADHDになっていた僕は今振り返ってそのように感じています。

そんな僕でも仲が良かった友達はいます。彼の名前を仮に「K」とします。連絡こそほとんど取り合ってはいないものの、突然連絡をしても全く問題はありません。幼馴染で24年程の仲です。他にも友達はたくさんいました。意外にも友達は割と多かった方だったと思います。彼らが本当に友達だと思っていたのか、遊びたいと思っていたのかはわかりませんが。

小学校低学年時代

小学生の低学年までは、彼らと一緒に一日中遊び回っていました。外で遊ぶことが大好きだったんです。

外遊びに夢中になっていたあの頃

当時は今のようにスマホもありませんでしたし、携帯も持っていませんでした。お金にも余裕はなかったので、両親が休みのたびにどこかに出かけるということもなかったです。なので近くの公園まで遊びに行ったり、家の前の大きな駐車場でサッカーをしたり、塀や木に登って遊んでいました。また、当時は虫が大好きだったので、虫を捕まえては家に持ち帰っていました。今では想像するとゾッとするのですが、虫籠に20匹くらいカブトムシを入れていたこともあります。

また、僕たちは「団地鬼ごっこ」と読んでいたのですが、ある友達が住んでいた団地全体で鬼ごっこをしていました。おかげで団地に住んでいる人が小学校に苦情を言い、めちゃめちゃに怒られたことを覚えています。入ってはいけないところに入ってよじ登ったり、ボールでよその人の家のガラスを割ってしまったり、かなりヤンチャなことをしていた小学生でした。

今の環境は子供にとって「生きにくい」環境

それでもかつてはそこまで大きな問題にならなかったんです。今では大きな問題になりそうなことが多いですが。とは言っても子供にとっては、このように「のびのびできる環境」は必要な気がすんです。現代社会は、子供にとってかなり「生きにくい社会」になってしまっているような気がします。もちろん子供が今の状況を「生きにくい」とは思わないですが。しかし、僕たちとは違った考えを持って大人になることは間違いないと思います。一体僕たちは対処していけるのか、不安になります。

しかしやはり、大人が「自由が多い環境」を作っていくことが大切だと思うんです。そうしないと子供の思考の世界が狭まる。小さな考えしか持てなくなる。活動して多くのものに触れることで、子供は「何か」を感じ取り、学んでいくと思うんです。その可能性を大人が潰してしまってはいけない。僕が過ごしてきた「過去の環境」と「今の環境」を比較してみて思うことです。

FF好きな少年

話を「遊び」に戻します。

「怪我」も日常茶飯事でした。僕がここでもガキ大将のような雰囲気でしたね。とは言っても、周りからそのように見られていただけで、僕は「大将」という気持ちは全くなかったです。純粋に「今日はここで遊ぼう」「今日はこれをして遊ぼう」と決めるのが好きだったんです。

また、ゲームも大好きでした。学校が終わってから友達の家で「スマブラ」をよくしていました。Wiiやゲームキューブの時代ですね。

そして僕はドラクエやファイナルファンタジーが大好きでした。全てのキャラクターをレベル99までにして、裏面のラスボスまで倒すくらいやりこんでいました。母からよく「あんたゲームやりすぎ」と怒られていたのは、いい思い出です。

なんで怒られても直らないの?

しかし遊んでいない時は先生や同級生をたくさん困らせていました。怒られ続けて落ち込むものの、いつになっても改善することができませんでした。ADHDの症状がまだ残っていた頃です。どうすればいいのか、自分でも全然分からなかったように記憶してます。

先生が言っていることもよくわかっていなかった。自分は純粋に「やりたいこと」をしていただけだったから。改めてお伝えしますが、僕はこのような行動を取っていた時、自分がADHDだったとは知らなかったです。自分がなんで発達支援センターのような場所に行っていたのかも、よくわかっていなかったです。

そして母からも詳しく聞かされていませんでした。

もちろん周りの先生方も知らなかったはずです。だからこそ、先生は「周りの子とはなんか違うな」と思っていただろうし、僕は僕で「なんで何も変わっていかないんだろう」と思っていたのです。

人生のターニングポイント①:小学5,6年の時代

そんな中で、小学5年生になります。僕は小学5年生と6年生の頃の担任の先生との出会いが、今までの人生の中で一番のターニングポイントだったと思ってます。仮に、この先生の名前を「N先生」とします。N先生が僕の全てを変えてくれました。

N先生の指導があってこその自分

なぜN先生が僕の全てを変えてくれたと思うのか。それは今こうして「自分軸で生きる」と決心した原因は、全て小学校の5,6年生の時の行動のおかげだからです。この先生に出会うことがなかったら、違った世界を見ていたと思います。

N先生は女性でしたが、短髪で毎日ジャージ姿、超体育系の先生でした。本名も教師を代表するような名前でした。そして、見た目はだいぶかけ離れていたのですが自分のことを「女神」と呼んでいました。芯が非常に強く、N先生以上に「本気」という言葉がぴったり当てはまる人は見つからない。それほど子供や自分の仕事と「本気で」向き合い続けていた先生です。

そして、N先生に出会ったことで「陸上競技」とも出会い、中学時代は陸上競技に没頭することとなります。本当に没頭していました。なので、中学や高校生活の「陸上競技以外の学生生活」をあまり覚えていません。しかしN先生と過ごした小学校の学生生活だけは鮮明に覚えています。その原因を順序立てて詳しくまとめていきます。

自分を振り返るためにも。

何かに本気になっている人ほど嫌われやすい

まず、N先生が担任になる前から「この先生はすごい」という噂は広がっていました。しかし、一方で「評判が良くない」という声も多かったことを記憶しています。しかしすごい先生なんです。これに関しては、僕が大人になって「自分軸で生きる」と決意してから強く感じることがあります。それは「何かに本気になっている人ほど嫌われやすい」という事実です。

感じていた違和感

本気で子供たちを変えていきたいと思っているからこそ、本気で子供たちと向き合う。良い方向に導くために指導をしているだけなんです。これはどんな場面でも言えることだと思います。本気で何かを好転させたいからこそ、本気で向き合うことをします。しかし周りからは「やり過ぎ」と捉えられてしまうんですよね。

本気であるが故に。

そしてそのような姿を見た大人は良い方向に導くための指導や行為をしているだけなのに「子供がかわいそう」となってしまいます。とは言っても、そう言っている大人だって子供を良くしてもらいたいと思っている。だけど「子供には無理をさせないで」とクレームを言う。矛盾が生じることになる。いったい本当はどうしてもらいたいのか。

良い先生がなんで・・・

本気で向き合う人に対して、多くの大人はこのような声をあげていたんです。ぼくは上記の通り、散々先生や同級生に迷惑をかけてきた人間なので、N先生からは毎日のように強い指導をされていました。

しかし指導される原因は「自分自身」にあります。

僕は当時から「自分が悪いから怒られているんだ」という気持ちがありました。なので怒られて当然だと思っていたし、N先生が「言い過ぎ」だと思うこともありませんでした。そしてN先生には「理不尽な部分」は一切なかったんです。全てにおいて全力でした。自分が指導されないような行動をせず、いい行動をすれば、誰よりも笑顔で褒めてくれました。

指導される行動を取るからこそ指導されるんです。

当時から「こんなに良い先生なのになんで評判が悪いんだろう」と思っていました。

本気な人は世の中の「矛盾」と戦わなければいけない

「子供を成長させたいけれど子供に無理をせずそれとなく成長させてもらいたい」というのが多くの大人の本音なのかもしれません。

しかしそれとなく成長させて、いったい何になるのか。子供に「それとなく成長させて、それとない大人になって、それとなく人生を歩んでいく」というような人生を歩ませたいのか。

本気な人は「それとなく」ができないから嫌われるような気がするんです。とは言っても、多くの大人は子供に「それとない人生」を送ってもらいたいとは思っていないはずです。だけど「本気」を避けてそれとなく指導してもらいたい。このような「矛盾」の中で大きな成長が望めない教育をしてもらいたい。

言葉にはしていないし、そう思っている人はほとんどいないだろうけれど、よく考えてみればこのような結論になってしまうんですよね。

N先生はこの事実を知っていた中でも「それでは意味がないから」と思って、自分の信念に一貫性を持たせて、僕たちに向き合ってくれていた。いつもニコニコハキハキしていたけれど、見えないところで苦労していたというのは容易に想像できます。

本気な人は世の中の「矛盾」と常に戦っていかないといけません。それが大前提です。矛盾に負けてしまうと「みんなと同じ状態」に戻ってしまいます。この頃から薄々感じていました。しかしそれでも、N先生は僕の中では光り輝いているんです。

N先生のスパルタ教育法

とにかく、本気で「僕と」向き合ってくれたことが嬉しかったんです。まずは、そんな先生との「日常生活」についての記憶を辿っていこうと思います。

N先生が担任になってからも同級生にちょっかいをかけたり困らせるような行為が改善されていなかったです。しかし、その度にN先生は「なぜそんな行動をしたのか」「どうすればあなたは改善してくれるのか」と、徹底的に指導をしてくれました。そのおかげで物事に対する分別がはっきりとつくようになりました。

「どんな行為をしたら人は困らせてしまうのか」「どんな行為をしたら人は喜んでくれるのか」については、N先生に指導を受けてから明確に判断できるようになったと思ってます。人にとって良い行動を徹底できるようになりました。

N先生は「手を抜く」ということをしなかったです。

しんどかった体育の授業

そしてN先生ならではの教育法がありました。まずは体育。僕たちはまだ小学校の5年生でしたが体育の授業が始まる前に「ウォーミングアップ」として校庭10周を走らされていました。体育館での授業なら「体育館を10周」もしくは「雑巾掛けを10往復」です。ペースを緩めていると怒られました。頑張ろうと思ってはいたものの、正直しんどかったです。しかしこの時の「鍛錬の積み重ね」が「自分軸で生きる」ための基礎になっている気がします。

自学ノート(めちゃくちゃ効果がありました)

そして自学ノート。

勉強する内容はなんでも良いから、毎日1ページはノートに勉強して提出することがルールでした。しなければもちろん怒られます。僕は卒業式の前日まで自学ノートをやっていましたし、毎日1ページどころか10ページ以上やっていた時もあります。

そして「やりたくない」という気持ちは一切なかったんです。やるとN先生が褒めてくれた。それが純粋に嬉しかったんです。小学6年生の1年間で23冊の自学ノートを終えました。自学ノートは今でも一部残っているので紹介しようと思います。

最後の自学ノートです(小6の時のものです)🔽

自分軸で生きるきっかけになりました

このようにやっていました。

ノートの一部です

「一言感想」もルールです、N先生は必ずコメントしてくれました。

自分軸で生きるきっかけになりました

その他にも「感想」を書いてくれます。

コメントです

自学ノートの最後のページです。

自分軸で生きるきっかけになりました

今では良い思い出です笑

いい思い出です。

このような言葉に助けられてきました。

自分軸で生きるきっかけになりました

N先生が子供と真摯に向き合っている様子はこのノートだけを見てもわかると思うんです。クラスには30名以上いました。自学ノートをやっているのは、もちろん僕だけではありません。それにも関わらず上の写真のようなレベル感で、みんなにコメントを書いている。そのほかにも仕事が山積みなのは間違いありません。いつ寝ているのか疑問に思ってしまいます。厳しいだけではなく、子供たちみんなをよく理解してくれていた先生なんです。

鬼のように練習した「書き初め」

次に習字。小学生時代の定番だと思います。「書き初め」ですね。僕のクラスでは、全員が習字のコンクールに「自分が書いた作品」を提出しなければいけなかったんです。N先生は習字の先生でもあって、本当に字を書くのが綺麗でした。

どの場面でも厳しさは変わりません。

先生が「よし」と思うまで提出することができませんでした。なので冬休みも返上して、書き初めの時期になると1,000枚ほど練習をしていたことを今でも鮮明に覚えています。文房具屋さんに何度も長い半紙と墨汁を買いに行っていました。100枚入りの半紙もすぐになくなってしまうんです。

しかし書き初めの練習をめちゃくちゃ練習できたおかげで、字が綺麗に書けるようになりました。たまたま自分が書いた字を見てもらう機会がある時は、ほとんどの確率で「字、綺麗だね」と言われます。字が綺麗にかけて損することはないですね。

挑戦してみたかった統計グラフコンクール

次に、統計グラフコンクール。

自分で調べたいことを決めて、調べたいことに関して自分でアンケートを取り、調査した内容をグラフにまとめる。そのグラフも画用紙などを使って制作します。そして、それらのグラフを大きな紙に貼っていき、「調査結果」を作るというようなものです。出来上がった作品を提出します。「根気」と「アイデア力」が問われるものでした。これは夏休みに取り組んだことです。

ちなみに、小学校6年生の時に取り組んだことなのですが、ほぼ全ての休みを使いました。これは希望制で、やりたい人がやるものでした。僕は何かを作ったりすることがあまり得意ではなかったのですが、挑戦したい気持ちが強かったので、休みを返上して挑戦しました。夏休みなのに、ほぼ毎日学校に行っていました。統計グラフコンクールはN先生のクラスの人だけではなくて、全学年を通して行われていた「恒例行事」です。何を調査してまとめたのかは忘れてしまいましたが、かなり厳しい環境の中で作業をしたのを覚えています。

自分にとって、すごく貴重な経験でした。

走ることが好きになれた「小学校」での部活動

最後に部活動。

僕は先述した通り外で遊ぶことが大好きでした。運動することが好きだったんですね。小学生の時は「フットサル」と「ドッジボール」を習っていました。そして運動会でも小学校1年生からずっとリレーの選手でした。運動神経は良かった方です。

僕が通っていた学校では、春になると市内の陸上競技大会に向けて数ヶ月間「陸上の練習」をします。これは学校全体でやっていたものです。小学校5年生の時は長距離を、小学校6年生の時はハードルをやっていた記憶があります。そこでも担当はN先生で、小学生とは思えないほどの練習メニューを毎日提示してきました。

練習内容までは覚えていませんが。

練習の中で市内の大会に出場できるメンバーを決めていきます。僕はその時に運よく、市内の陸上大会に出場するメンバーに選抜されました。その時に「達成したいことが達成できると嬉しいな」という気持ちを持つようになりました。また、練習はとてもつらかったのですが、それでも「走ることって楽しいな」と思うようになりました。

陸上競技が好きになりました。

小学校の短期間の陸上練習で楽しさを感じるようになってからは、陸上に専念するようになりました。この時点で中学校では陸上部に入ると決めていて、将来はオリンピック選手になりたいと思うようになりました。

陸上に興味を持ち始めた小学時代

中学校の陸上部に入る以前から、陸上競技に深く興味を持ち始めたんです。

僕が小学校6年生の時は2007年で、ちょうどその時大阪で世界陸上が開催されていたんです。アメリカのタイソン・ゲイ選手や中国の劉翔選手が本当にかっこよくて、彼らの走りに衝撃を受けたのを覚えています。新聞を切り抜いて、厚紙に貼って保管していました。それくらい陸上が好きになっていたんです。彼らのように活躍できるような選手に自分もなりたい。小学時代の純粋な僕は「絶対に世界の舞台で走ってやる」と思うようになりました。

自宅の前のアスファルトの道で夜に自主練習をしていました。まだわからないことばかりで「何をやれば効果があるのか」ということは一切わかりませんでした。しかし本屋に売っていた『陸上競技マガジン』という雑誌を両親に購入してもらって毎月読んだり、小学校の練習で学んだことをもとにして自分でアレンジしながら練習をしていました。

「日記」を始めるきっかけになった『陸上競技マガジン』

陸上競技マガジンに、ある日本代表の選手が「陸上ノートを始めるといい」という話を掲載していました。それを読んだ時に「自分もやり始めよう」と率直に思い、やり始めるようになりました。

なぜなら、活躍している選手はみんな「ノートに記録している」という記述があったからです。

このタイミングから今に至るまで、「自分自身」を日記を用いて記録するようになります。僕自身16年日記を継続しているのですが、始めるようになったきっかけは『陸上競技マガジン』にあるんです。また「メモ」をするようになったのも、陸上ノートのおかげだと思ってます。

参考までに「日記に関する記事」と「メモに関する記事」も共有します。ご興味のある方はご覧ください🔽

こちらが16年前の陸上日記です。

記録帳です。

見開きのページです。

自分軸で生きるきっかけになりました

記録や目標などを書いていました。

とにかく書き残そうと思ってました。

書き方は、何かを見て真似ていたわけではなく、自分なりに書いていました。どう書けばいいのかは、わかっていませんでした。しかしとりあえず「何か書いて記録に残しておこう」という気持ちが強かったです。

「継続力の基礎」が身についたタイミング

N先生が今の時代に以前と同じような教育をしていたら、完全に「体罰だ」と言われてしまうと思います。「超」がつくほどスパルタでした。

とは言っても、僕はN先生が厳しく指導をしてくれたおかげで「継続力」や「行動を諦めないことの重要性」を学ぶことができたと強く感じています。そして、その能力を養っていくことができました。

小学生時代に上記のような経験をすることができたのは、僕にとって幸運でした。人はつらい状況に身を置いて生活をしていかないと成長できない。楽な環境では居心地が良いけれど成長することができない。仮にもし僕がN先生に出会っていなかったら、人生はかなりハードになってしまっていたように思います。しかし今はどんなことやっていても、「継続」に関しては全く苦痛を感じません。むしろ「継続」が楽しいとさえ感じています。

N先生の指導によって「自分軸で生きるための基礎」が作れましたし、ADHDの症状がなくなったと思ってます。短期的な「目の前で起きている事実」だけを見てしまうと、ただただつらくて諦めたくなります。自分にプラスになることとは言え、辛いことを続けたいとは思えないですから。それが小学時代の経験でした。まだ幼い僕たちにとってはかなり過酷な指導だったことは間違いありません。

小学時代の教訓

大人になった今、未来を考えることで「つらい状況」は乗り超えていけます。乗り切っていけます。

なぜそう思うのか。

僕は小学生時代に未来を強く想像していたわけではありません。そのような考え方を持つことはできませんでした。

しかし今振り返ってみた時に、かつて諦めないで行動をしていたからこそ、今の自分になることができたと思っています。自分でやると決めたことはやり通すことができるようになりました。今を振り返ってみると、強く感じるんです。だからこそ、今後に向けての行動の中でも諦めなかったら「あの時諦めないで良かったな」と思えるタイミングを迎えることができるはずなんです。

諦めないで向かっている方向は、未来ですから。未来が良くなるに決まっています。それに、僕は実証しました。

これは小学時代の教訓です。

とは言っても「そんなことわからないでしょ」と思うのが普通なことです。しかしわからないからと言ってつらい行動から逃げ続けていると、逃げることが習慣になってしまい何も変わっていかない。変わっていくのは「年齢」と「年齢に伴う見た目」だけになってしまいます。そんなことは誰も望んでいないことです。それだと後悔することになります。

後悔を感じるタイミングは、「すでに取り返しがつかないタイミング」が多いです。後ほど話していきますが、このように強く感じるのには理由があるのです。これも僕の家族が深く関わっています。

陸上に明け暮れた中学時代

次に中学時代です。

中学生からは陸上にどっぷりと浸かることになります。本当に夢中になっていました。なので改めて書いておきますが、クラスメートとの会話や生活はほとんど覚えていません。笑

ほぼ全てが陸上部の仲間との記憶だけです。

レベルが違いすぎる・・・

ちなみに現在はこのようにブログを執筆したり「学び」に関する発信をしていますが、そもそもインターネットに触れることがなかったです。なので、今こうしてMacBookを使ってブログを執筆することになるとは、夢にも思っていませんでした。

当時の僕は陸上選手になることしか考えていなかったです。

僕は足が速い方だったとは言え、突出して速い人間ではなかったです。しかし同じ中学校の先輩の中では、びっくりするほど速い人がいました。中学1年生と3年生では体の発達に大きな違いがありますからね。

そして同じ地区では全国大会で優勝するような速い人もいました。僕の県では「陸上王国」と言われるほど陸上のレベルが高かったです。特に、僕が中学1年生の時の中学3年生の人たちは凄まじく、日本中学記録を出すような人もいました。そして、その時の全国大会の100mは1位から3位までが千葉県の選手だったはず。わりと身近な環境でそのような全国トップの選手を見ていたので、かなり圧倒されたことを覚えています。

冗談抜きで、「速い」という言葉以上に速いんです。

中学生の時から100mを10秒台で走ることって常人ではできないことです。凄まじかった。「全国トップ選手になるためにはこんなに早くならないといけないのか」と意気消沈したことを記憶しています。

まずは県大会に

しかし「全国の舞台で輝けるようになりたいな」「かっこいいな」と思ったことも事実です。中学生になってから、まずは100mと幅跳びに挑戦しました。とりあえず、県大会に出たかったので練習に集中しました。みんなが練習していない時間帯も自主練習をしていました。練習で手を抜いていたら成長することはできない。小学時代の学びが活かされていました。

もちろんこの頃も、陸上の日記は書いていました。

自分軸で生きるきっかけになりました。

「記録」と「目標」を書いています。

いい思い出です。

自主練をやっていた時もそうでない時も記録していました。

自分軸で生きるきっかけになりました。

当時、「県大会」や「全国大会」に出場するためには「標準記録」を突破することが前提条件でした。

僕の中学時代の目標は「全国大会」に出場することでした。

この標準記録は「中学3年生まで」同じ記録です。夏の県大会は「関東大会」や「全国大会」につながる大会でした。そして秋の県大会は県新人大会、つまり中学1年生や2年生がメインの大会です。

凡人であることを自覚したタイミング

中学1年生の時はまだまだ力がなく、県大会に出場することができませんでした。外の世界を見ることで理解できたことですが、自分は力がないということにちょっとずつ気づいていきました。

天才は本当に存在していて、僕は凡人だった。

中学時代は、近くにいる人たちの中では速い方だったと思ってます。しかし地区、県、関東、全国と広げていくごとに課題は大きくなっていくばかりでした。

みんな速すぎる。

だからこそ人よりも数倍練習しないといけない。量をこなせばいつかは結果につながると信じて練習していました。母親にも「すごい人たちは血の滲むような努力をしている」としょっちゅう言われていました。だからこそ練習することをやめなかったんです。中学1年の頃に見たような凄まじく速い選手に僕もなりたかったから。

こちらは、3冊目の陸上日記です。

中学1年の時のノートです。

僕が取り組んでいた種目の動作イメージの記録。

自分軸で生きるきっかけになりました。

自主練の記録と部活の記録。

感想を書いていました。

自分で組み立てた自主練のメニュー。

自分軸で生きるきっかけになりました。

県大会にも出場できなかった中学2年生

しかし、中学2年生の夏の県大会にも出場することができませんでした。中学3年生の先輩方の方が速く、僕がメンバーになることはできませんでした。選抜されるメンバーは1つの種目につき3人まででした。しかし絶対に諦めたくなかったし、いつかは速くなれる、速くなってみせると思っていました。

それでもなかなか速くなることができませんでした。

「誰よりも練習はしているはずなのになんで速くなれないんだ」と落ち込むことは非常に多かったです。しかし諦めたらそこで試合終了。全て何も変わらないままになってしまう。自分が掲げている目標も達成できなくなってしまう。それは自分自身に対しての「負け」につながるように思っていました。なので「自分軸で生きる」ように、黙々と練習をこなしていきました。

種目を変更することで感じた「成長」

僕はこの頃、「走り幅跳び」と「ハードル」をやっていました。「自分は100mで勝負することはできない」と思ったので種目を変更しました。ハードルに関しては、小学生の時にも少しだけやっていました。そして僕にとっての憧れの選手は劉翔選手でした。同じアジア人でありながら世界記録を樹立し、世界のトップで走り続けている姿がカッコよく見えたんです。そのような理由があったため、ハードルをやることにしました。

100mをやっている時には感じることができなかったのですが、ハードルは練習時にメキメキ上達していく感覚がありました。練習するたびに成長できた。それが楽しかったでんです。なのでハードルを専門の種目にして、練習を積み重ねていきました。どうなるかわからなくても色々なことに挑戦する。その重要性を理解できた時でもあります。

県大会に出場できたものの・・・

すんなりと県新人大会の標準記録は突破して、秋の県大会に出場することができました。全国大会に出場したいと言っていた人間が、ようやく中学2年生の後半になって県大会に出場できるようになった。笑

正直精神的にはきつかったですが、「勝負はこれからだ」と自分に言い聞かせていました。

確か県新人大会のランキングは10位前後でした。自己ベストを出さなければ決勝に進むことはできない、そんな状況でした。

しかし結果は準決勝敗退。

惜しいところまで行きましたが、決勝まで進むことはできませんでした。

中学2年生の後半であるこの大会に至るまで、散々悔しい思いをしてきた。悔しい思いをしていたから、たくさん練習を重ねてきていました。自分でメニューを考えて自主練もしていたし、暇さえあれば雑誌を活用して陸上の研究もしていました。それでも県大会の準決勝までしか進むことができていないという現実が、目の前にありました。「なんでもっと速くなれないんだろう」と考えることが多かったように思います。

挑戦の機会に恵まれていた

そんな中で陸上部の顧問の先生に「混成競技をやってみないか?」というようにすすめられました。

混成競技というのは、複数の種目に取り組んで点数を競う競技のことです。点数は記録によって変化していきます。記録が良ければその競技の点数も高くなり、最終的な合計得点も高くなるということです。あの有名な武井壮さんは、学生時代に十種競技をやっていました。その中学バージョンですね。中学では四種競技で、種目はハードル、砲丸投げ、高跳び、400mです。4種目を2日に分けて行いました。

「お前は何でもできるから挑戦しても良さそうだな」みたいに言われたような気がします。このような流れで、中学3年のラストシーズンは混成競技に力を入れることにしました。後は、引き続き単体のハードル種目もやっていました。

どんな種目でも良いから、自分の得意種目で全国大会に出場したい。本当にそれだけしか考えてなかった。

自分軸で生きれるようになったのはきつい練習があったから?

ちなみにスポーツの世界では、シーズン中の練習内容と、オフシーズン中の練習内容は全く違った内容になります。オフシーズン中の練習はめちゃくちゃきついです。寿命が縮まるようなレベルのトレーニングを毎週こなしていました。若いからこそできるトレーニングで、健康に良いものではないです。笑

例えば200mを20~30本走ったり、300m +200m +100m×5セットみたいなトレーニングもしばしば行っていました。当然きつかったですし、やりたくないって思うことはありました。

しかし当時のチームメイトと切磋琢磨してなんとか乗り越えることができました。

同級生で、県の新人大会での400mで5位になった人がいました。走りに関しては彼に食らいついていこうと必死だった、そんなことを覚えています。刺激をもらっていました。

とにかく負けたくなかった。

突出した能力はなかったのですが、本当に負けず嫌いだったんです。それにもかかわらず「負け続けていた」ので、さすがにもう負けるのはゴメンだと思っていました。

迎えた「中学陸上」ラストシーズン

とうとうラストシーズンを迎えました。

「絶対に全国大会に出場するぞ、力も去年に比べて格段にアップしてる!」このように意気込んでいたのを、今でも忘れません。

県大会の前には地区大会や記録会が複数行われました。試しに混成競技に出場してみたのですが、地区レベルの大会では、ほとんど「1位」で競技を終えることができていました。混成競技は自分の体を駆使して複数の競技をこなしていかなければいけません。器用さが求められる種目でもあります。

僕は突出して得意な種目があったわけではないのですが、どの種目もバランスよくこなすことができました。それが自分のデメリットであり、メリットでもありました。そんな僕には、混成競技が「一番お似合いの種目」でした。今思うと、このように感じます。厳しい戦いの中でも、ひとつひとつ多くの問題をこなしていく。突出した能力がなくても、楽しんでこなしていく。現在の自分の生活態度とも一致する部分が多いんです。

過去を振り返ると見えてくるものがある

そして今振り返ってみると「なるほどなぁ」と思うことがあります。

それは「1つのことに集中するよりも、複数のことに目を向けて1つの結果を作っていくことが得意」だったということです。これは、振り返って初めて理解できたことなのですが、すでに中学時代からそのような兆候が出ているなと強く感じます。

もしかしたら何をやれば良いのか悩んでいる人がいるかもしれません。そんな時は「自分の過去」を詳細に振り返ってみることが重要だと思ってます。現在の自分も過去の自分も「自分」ということに変わりはありません。自分の心と体が「見えない人生の道」を「過去から」駆け上がってきているわけですから、自分の過去にヒントがあるのは間違いありません。否定するとか肯定するとかではなく、「過去」を冷静に俯瞰することが大切だと思うんです。

優勝を狙っていた県大会

着々と記録を高めることができて、四種競技の夏の県大会のランキングは「1位」でした。「優勝が狙えるところまでようやく来た」と思いました。「全国大会に出ようと思っているならここで優勝しないとな」という気持ちが強かったです。

そしていよいよ県大会を迎えました。

しかし、結果は2位に甘んじることになりました。

確か3種目目までは1位をキープできていたのですが、ラスト種目の400mで競り勝つことができず、負けました。優勝することだけしか考えていなかったので、2位だと決まった時は涙しましたね。僕はあまり涙を流さない人間なのですが、悔しくて仕方がなかったのです。母からこの時「頑張ったんだから良いんじゃない」と言われました。しかしその時の自分は素直になることができなかった。表彰台に登って銀メダルを受け取っても喜ぶことができなかった。

ちなみに県大会の上位3名が関東大会に出場することができるのですが、関東大会で混成競技がなかったため関東大会にも出場できず。全国大会の標準記録も程遠かったです。なのでここからは混成競技に区切りをつけて、残りの中学の陸上をハードル1本に絞ることになります。

全国大会の出場権を得れる「最後のチャンス」

実は、夏にはもうひとつの県大会があって、その県大会で全国大会の標準記録を突破すれば出場権を得ることができました。なので「もうひと踏ん張りしよう、負けたけどまだチャンスはある」という気持ちで向き合うことにしました。諦めるにはまだ早かったんですね。

「全国の決勝に残る」というような目標は、すでに非現実的なものとなってしまいましたが、全国大会に出場することならできるかもしれないと思っていました。現実味はありました。

そしてラストチャンスである夏の後半の県大会が始まりました。調子は悪くなかったです。

しかし結果は全体で「9番目」でした。全国大会の標準記録まで残り0.3秒でした。

完全に自分に集中して、自分の力をしっかりと出すことができれば、標準記録をすることができた。

それだけに本当に悔しかったです。

結局ラストチャンスの大会も、「悔しい」という気持ちを残したまま終わってしまいました。結局大きな目標を達成することができなかった。

とは言っても、中学3年間手を抜くことなく陸上に向き合ってこれました。「あ、ダメだったか」というような、吹っ切れたような気持ちで終え流ことはできたように思います。「悪い悔しさ」ではなかったです。

「負けっぱなし」で陸上に終止符を打つことはできない

高校でも陸上を続けるつもりでトレーニングを積んでいました。

「陸上しかないんだ」といような考えも、自分の心の中にはあったような気がします。それに、負けっぱなしで陸上競技に終止符を打つことなんてできなかった。もっと強くなりたいというような気持ちはありました。

中学では全国大会に出場することができなかったですが、高校になっても全国大会に出場できるチャンスはあります。高校の全国大会はインターハイです。ますますレベルが高くなりますが、当時の僕は陸上に対するモチベーションが非常に高かったため、「絶対に出場できる」という気持ちしかなかったです。やることをやる。それだけでした。

高校時代

夏の県大会で4種競技が2位だったことから、スポーツ推薦で私立の高校に通うことができるようになりました。陸上の強豪校です。

陸上の強豪校に進学することに

毎年インターハイに出場する人がいて、さらに決勝で優勝争いをするようなレベルの種目もあるような高校でした。レベルが高い環境で勝負をしたかったんです。なので自分自身を「レベルの高い環境」に身を置きました。環境は大切だと思っていたから。

しかし高校までの距離は非常に遠く、片道約2時間かけて行っていました。電車が長かったので移動するのは大変でしたね。高校時代の専門種目もハードルでした。しかし高校からは400mHという種目が増えます。為末大さんの専門種目ですね。110mHと400mHのどちらもやっていました。

高校1年の時はまだまだ実力不足を感じていたものの、レベルが高い環境の中で着実に力をつけていた感覚がありました。

ノートです。

記録の一部と顧問の先生のコメント。

自分軸で生きるきっかけになりました。

常に「本質」を伝えてくれていたんだなと感じます。

いい思い出です。

高校2、3年で鈍化した成長

しかし2年、3年と学年を重ねても、大きく変化することができませんでした。

高校時代は県大会で決勝に進むこともできず、準決勝止まりだったんです。

そして周りを見てみると、他の人はメキメキ成長していた。1年生の時は僕よりも遅かった人が、3年生の最後の年でインターハイに出場している。インターハイの決勝の舞台で走っている同級生がいる。

ちなみにインターハイに出場するためには県大会から勝ち上がっていかなければいけません。まず県大会で6位以内になること。そして南関東大会で6位以内になることが必須条件でした。標準記録とかではなく勝ち進んでいかなければいけないんです。しかし僕は先述の通り、県大会で決勝にも残ることができませんでした。インターハイの会場に行くことすらできませんでした。

悔しかった以上に、情けなかったです。

両親の期待を裏切った僕の陸上人生

推薦とは言え、私立の高校は学費が高額です。自宅に潤沢な資金もあるわけではなかったです。

むしろ厳しい生活環境が続いていました。

しかしそんな中でも、両親は20,000円以上するような陸上のシューズを定期的に買ってくれました。ウェアも買える時は買ってくれました。試合の時は毎回競技場に来てくれてビデオを撮ってくれたり、応援もしてくれました。そして僕の走りをビデオで撮ってくれたことで、走りを常に研究することができました。

以前、両親は「あんたが陸上をやっていた時に、もっと色々やってあげらればよかったんだけどね」と言っていました。

しかし十分すぎるくらいに、サポートしてくれていた。裏切ってしまったのは僕の方です。

だからこそ、県大会までしか進むことができなかった自分に腹が立ったし、情けなく感じたんです。

それでも母は「お疲れ様」「やることはやったんだし良いんじゃない?」と言ってくれた。本当に家族の存在ってありがたいなと思いました。陸上で活躍している姿をができなかったのが見せられなかったのが、僕の人生の大きな後悔でもあります。このような後悔はこれからも一生なくなることはないですし、記憶に焼きついて離れないことでしょう。

誰よりも練習してたのに・・・

練習は人一倍やっていたんです。学校は非常に遠いにも関わらず、毎朝5:00には起きて、朝練がない日も学校のグランドに行き朝練をしていました。黙々と練習をこなしていました。しかし上記のような結果に終わってしまったんです。

ここから学べることがあるなと、今振り返って思うんです。

適切な環境を選ぶことの重要性

まずは環境。

自分のレベルに合った環境に身を置くことが大切だと感じました。「レベルの高い環境に身を置かないと成長できない」と言う人がいます。しかしレベルが高すぎると「揉まれるだけ揉まれて成長できない」状態になりやすい気がするんです。僕はそうでした。恐らくやる気は誰よりもありました。しかし大きく成長することができなかった。「自分とかけ離れたレベルの中で成長することができる人」はごく稀だと思います。「適切なレベル」の中で行動していくことが大切です。

自分に集中しないと「想像」は形にできない

次に自分に集中することの重要性。

高校時代は特に顕著だったのですが、自分に集中できていなかった。先輩や顧問の先生、周りの人の走りばかりを気にしていました。自分に集中しているようで集中することができていませんでした。動画でオリンピック選手の動画を何百回も見て、真似ることもしました。しかしそればかりで「自分の骨格に合った走り」をすることができていませんでした。自分の走りができていなかったのです。さらにレースでは、隣の人を気にしていました。だからこそいざ本番にいなると体が固まってしまって、思うように力を発揮できなかったのです。

上の2つの経験から学べること

✓上記の2つの経験を踏まえて学べることは下記の通りです

・見栄を張らず「適正なレベルの環境」に身を置くこと

・自分軸で生きること

・他者の行動は参考程度に留めておくこと

・周りがどうであれ流されないこと

・量をこなすだけでは成長できないということ

しばらくの間、やる気を持って練習をすることができなかったです。しかしまだ諦めることができませんでした。全国という舞台で走りたいというような気持ちがなくなることはありませんでした。

幻の大学時代

そこで、大学でも陸上をやることに決めました。

1年で「約200万」の奨学金を借りて大学へ進学することに

しかし、いつまでもお金の問題が付き纏って離れなかったです。1年間で200万円ほど奨学金を借りて進学することになりました。

今まで良い思いをさせてくれなかったにも関わらず、陸上が好きでした。

そして家族も「そこまで陸上頑張りたいなら大学に進学して良いんじゃない」と言ってくれました。お金はなんとかなる。なんとかならないことは今までなかったから。

どんなことに対しても「自分がやりたいと思っているならやってみればいいんじゃない」と言ってくれた母には本当に助けられたなと思っています。どんな状況であろうと、僕たち兄弟を受け入れてくれました。

大学でも、キャンパスライフの記憶はあまりありません。はっきりと覚えていることは部活のことだけです。

寮で生活をしながら授業後に練習をする、そんな生活を続けていました。寮と言っても、一軒家です。住む場所だけがあってご飯を作ったりするのは自分たちでやっていました。

まだ「全国の舞台」で走れるチャンスはあった

大学1年の時は110mのハードルに絞りました。大学まで陸上をやっていると専門種目は決まっている人がほとんどです。例えば100mの桐生選手は100mが専門種目ですよね。色々な種目をやることはありません。練習の一環で全く違う種目をやることはありますが。種目を絞っていくからこそ、記録を追求していくことができます。

そして大学での目標は「全国インカレ」や「関東インカレ」で上位入賞することが目標でした。これらの大会はわかりやすく言うと、大学の全国大会と関東大会です。

僕はまだ、一度も全国大会や関東大会を経験したことがありませんでした。そして大学まで陸上を続ける人は、実績を残している人が多かったのは事実です。とは言っても「やっぱり全国や関東の舞台の[空気]を味わってみたい」と、当時は強く思っていました。熱が冷めることはありませんでした。

全国で実績を残しているような人と同じ学校に通い、一緒に練習できること自体が嬉しかったです。その中で練習を積み重ねました。

例に漏れず、練習が終わった後や、誰も練習をしていない時も淡々と練習をしていました。

「強くなりたい」という気持ちはどんな時でも消えることがなかったんです。

自分で考え行動することの重要性に気づいた瞬間

大学では、自主的に行動している人が多数いました。

「本当に強い人たちはやっぱり自分で考えて動いているんだよなぁ」と感じたタイミングです。中学、高校とは意識のレベルが違いました。キツい練習を自らこなし、楽しんでいる人が多かったですね。このような場面から見ても、長く続けるためには「楽しいと思えるかどうか」が重要な気がするんです。そもそもキツくて、できればやりたくないことなのに、それが楽しくなかったら「やりたい」なんて思えないですからね。

しかし僕も陸上が大好きだったので、自らキツい練習を楽しんでいました。

大学で初めて踏んだ「関東の舞台」

記録会や試合に出場する中で、関東インカレの出場権を得ることができました。

ようやく関東大会で走ることができる。決まった時は本当に嬉しかったですね。

しかし出場できたものの、結果は予選落ちでした。

大学1年生から4年生までが同じレースを走るのですが、レベルの違いを感じました。勝てないことが悔しかったので、その後も記録会や練習を重ねました。先輩方からも走りやトレーニングののアドバイスをたくさんもらい、成長していくことができました。

しかし全国インカレの参加基準は非常に高く、当時1年だった僕は出場することができませんでした。

なので「大学2年で出場できるように、未来を見据えて練習をしていこう」と決めました。

人生のターニングポイント②:「大学を退学しないといけない」という現実

しかし想像もしていないことが突然起きます。

金銭的に問題が生まれてしまい学費が払えなくなったため、大学を1年の終わりで退学することになりました。

高校側にも迷惑をかけてしまったなと思ってます。

これは、僕の2番目の人生のターニングポイントでした。

もちろん退学することなんて一切考えていなかったです。しかし大学に在籍し続けることができなくなりました。当時は大学で陸上を続けられなくなったことが悔しかったですし、頭の中が真っ白になったのを覚えています。

「なんで、そんなことになったんだ」と。

だけど「仕方ないな」という気持ちもありました。両親に原因を押し付けることはしません。

しかし大学まで子供を行かせてあげるためにも、困らせないためにも、「お金」は重要だと思うんです。それが親の責任だと思ってます。僕はそのためにも「自分軸で生きる」ことが大切だと感じています。両親には感謝し尽くしてもできないです。しかし両親の「達成できなかったこと」を繰り返してはいけない。この経験から学んだことです。

子供に不自由をさせない、子供の希望には100%答えてあげることが親の義務だと強烈に感じました。

社会人として生きることに

大学は退学してしまいました。しかし陸上で結果を出すチャンスはまだ残されていたんです。

陸上を続ける気持ちがなくなった

「実業団」として個人で働きながら大会に出ることができました。そして成績が良ければ、実業団の全国大会に出場することができます。なので働きながら空いている時間に1人で競技場に行き練習をしていました。

そのような生活を半年ほど続けましたが、ある時ふと陸上に対する熱が冷めてしまいました。「陸上で生活することはできない」「自分が本当にやりたいことは何なのか」と思うようになったんです。それにそもそも僕の目標は「学生のうちに」全国大会に出場することでした。しかしもうそれを達成することはできません。なので「陸上はもう諦めよう」と思うようになりました。燃え尽きた感じですね。

母親にそのことを話しましたが、ここでも「あんたがそう思うならそれでいんじゃない」とすんなり受け入れてくれました。

「あれをやりなさい」「これをやりなさい」と一切言はないことが「最高の教育法」だと、実体験をもとに感じるのです。

人生で初めて「本格的に」働くことに

この出来事以降は、陸上競技と向き合う気持ちは捨てて、スポーツは趣味程度で続けることになります。

そして仕事を本格的にはじめました。

僕は学生の時、コンビニのアルバイトを数ヶ月間しかやったことがなかったので、どのようなことだったとしても初めての経験になりました。

まずは派遣として倉庫で商品をピックする作業、そしてこちらは派遣ではなくアルバイトとして居酒屋での仕事をしていました。焼き鳥が売りの居酒屋だったこともあり、僕は焼き鳥を焼く「焼き場」を任されました。倉庫内作業と居酒屋の掛け持ちで朝から夜遅くまで仕事をしていたことを覚えています。

その中で、個人的に語学ができる人に憧れを持っていました。なので当時は自主的に英語の勉強もしていました。なぜそのような気持ちが生まれたのか、その理由は具体的に覚えていません。

この時は「自分が好きなことと関係のある仕事を探す」という考えすら、持つことができていませんでした。その概念がなかったのです。わからないことだらけでまだまだ無知な状態でした。

派遣の仕事で感じた「ヤバさ」、居酒屋でのSさんとの出会い

派遣の倉庫内作業は毎日全く同じような仕事内容で、全く楽しくありませんでした。そして目の輝きを失っている人が非常に多かった。もちろん全員ではなく、自分の芯を持って仕事をしているような人もいましたが、「世捨て人」のような人が多かったです。純粋に「あ、ここでずっと働いているのはヤバいな」って感じたのを覚えています。

そして居酒屋のアルバイトをしていた時に、ある人と出会うことになります。この人はSさんとします。Sさんは見た目は韓国人のようなイケメンで、ファッションセンスがものすごく高い人でした。また努力家でもあり、継続することの大切さを改めて「直接」学ぶことができた人物でもあります。Sさんは今では、有名な日本のファッションブランドで活躍されています。

Sさんの影響で「服」に興味を持つように

当時、Sさんのインスタを見て「おしゃれでめちゃくちゃかっこいいな」と思ったのは、今でもはっきりと覚えていることです。そして会話をする中で意気投合し、一緒に出かける機会にも恵まれました。真剣に未来について話せるような人になりました。

また、Sさんの影響で「服」に非常に興味を持つようになったのです。

ハイブランドの商品も「なけなしのお金」で買っていました。

「服で人は変化する」ことを強く実感したタイミングです。それはとても素敵なことだなと感じるようになったんです。

この頃は、暇さえあれば外に出歩き、おしゃれな街やカフェに行ったものです。僕はそれまで服には完全に無頓着でした。学生時代はだいたいジャージでしたし、私服は大学1年まで、両親に頼んでいました。ファッションの世界とはかけ離れた人間がいきなり「服に興味がある」なんて言い出すので、母は少し驚いていました。

某ファッションブランドのお店で働くことに

Sさんとの出会いがきっかけで、服屋に就職することになります。派遣の仕事も居酒屋もやめました。この服屋には今も勤めているのですが、きっかけはSさんなんです。さらに僕は「外国語を使って仕事をしたい」という考えが居酒屋時代からありました。就職が決まった職場は、働く以前に行ったことがあるお店で、そこは「海外のお客さんが本当に多い」ことを知っていました。そのため、そのお店目掛けて「ここで働こう」と思い行動に起こしたわけです。

しかし、まさか自分が中国語を勉強するようになるなんて夢にも思っていませんでした。

そもそも僕は学生時代「日本人がなんで外国語を勉強するの?」と思っていたレベル感の人間でした。使う機会が一切なかったからなのかもしれません。

陸上をやめてから世界の見方が変化した

そのような考え方が変わったのは、陸上をやめてからでした。今思ってみると、「陸上だけ」に集中できてはいましたが、視野が完全に狭くなっていたなぁと感じるところがあります。本当に陸上のことしか考えていませんでしたから。自分の生活そのものに関する将来のことはほとんど考えていなかったんです。なので大学を退学して、陸上の道の完全に諦めざるを得ない状況になったことは「悪いことではなかったのかな」と思っているんです。

あのタイミングで大学に居続け、4年生まで陸上を続けていたら、このように記事を書いていることもなかったと思っています。そして膨大な額の奨学金を払うことになっていました。世界に無数に広がっている「可能性」に気づくことができなかったかもしれません。もちろん、語学に興味関心を持つこともなかったでしょう。

好きな服屋で、しかも語学を使って仕事ができる環境って最高

服屋で働けるようになったこと、なおかつ語学を活用して働けるという環境に身を置けることができました。「自分がやりたいことができている」そんな感じがしました。

しかし、実際に働いてみると想像以上に大変でした。

実際僕は、接客業が好きではなかったんですね。服は好きだけれど、好きだったのは「服」だったのです。なので当時は理不尽なお客さんが来た時にうまく感情をコントロールできなくて、苦労していたことを覚えています。上司にも毎日のように叱られました。しかし「もう無理だ」と思ったことは一切なかったです。叱られるのは自分が叱られるような行動をしているから叱られる。他人に原因を作ることはなかったです。

中国語との出会い

僕が働いているお店は世界屈指の服屋です。なので海外のお客さんが非常に多いです。店内ではあらゆる国の言語が飛び交っています。その中でも、当時特に多かったのが中国のお客さんでした。

僕が入りたての頃、上司と一緒に店舗のツアーをしたことを覚えています。その時に海外のお客さんが英語で質問をしてきました。僕は当時まだ英語を使って対応することができなかったのですが、その上司はすんなりと返答していました。

すごくカッコよかった。

「あ、やっぱり外国語を使えるようになりたいな」と強く感じたタイミングです。

そしてある日、中国のお客さんが「必死に」僕に対して質問をしてきました。しかし僕は全く理解することができなかったんです。それはそうです。僕はこの時に至るまで、中国語に関わることは一切なかったです。むしろかつては中国の方々に嫌悪感さえ抱いていました。しかし中国のお客さんが必死に質問しているにも関わらず、何も返答ができませんでした。その時にすごく悔しい気持ちになったんです。答えることができない自分が腹立たしかった。

これが僕の「中国語との出会い」です。

ネイティブに頼ることはできなかった

英語を使って接客できる人は比較的多いですが、中国語を使って接客できる日本人は非常に少ない。それなら僕が学んで使えるようにしようと思いました。べらぼうに海外のお客さんが多い店舗という特徴があるため、海外のスタッフも多く、中国のスタッフも多いです。

しかし僕は、中国の方々に頼るのではなくて、自分で接客をしていきたいと思っていました。なぜなら、ここは日本で、日本人である僕たちが海外の方に向けて「外国語を使って」接客をすることで、お客さんの満足に良い影響を与えると感じていたからです。中国の方々が中国語を使うのは普通なことですが、日本人が中国語を使えば、中国のお客さんは「お、すごいじゃん」「私たちの国の言語を使ってくれている」と思ってくれます。海外の方々は、自分の国の言語を話してくれる「外国人」に好印象を抱いてくれます。これらの思いがあったからこそ、本気で中国語に向き合うことができました。

上記の通り、中国語を始めたきっかけは自分から「中国という文化」に歩み寄ったわけではなく、たまたま中国のお客さんが多くて、接客する機会があったからというようなものでした。環境が違かったら、別の言語に興味を持って、その言語を本気で習得しようと思っていたはずです。

中国語以外の言語にも興味を持ったけれど・・・

2~3年働いた時には業務内容はかなり上達し、仕事の中でもアルバイトの人に指導するような立場になりました。

とは言っても、人間としてまだまだ育っていないところが多かったです。

お客さんからクレームをもらってしまうこともありました。しかし仕事そのものが楽しかったし、働きながら語学も活用できることに喜びを感じていました。

一日中服屋で仕事をする、休日はカフェに行って中国語の勉強をする。

そんな生活がずっと続きました。

当時から遊んだりするよりも学ぶことが好きだったので、そのような生活は一切「苦」ではありませんでした。

中国語を勉強している中で、その他の国の言語にも興味を持つようになりました。それらの言語は「韓国語」「フランス語」そして「英語」です。中国語にのめり込んでいたので、英語の勉強をすることをストップしていたのですが、やはり勉強をしたいと思いました。さらに韓国語とフランス語を並行して勉強していました。

合わせて、4ヶ国語です。

何かを達成したいなら、たくさんのことをまとめてやってはいけない

しかしどの言語も上達することはありませんでした。フランス語は本当に簡単な言い回しだけしか覚えられず、韓国語は「ハングル文字」が読めるようになった程度です。

そして、かなりエネルギーを消耗しました。

それに加えて「中国語」に対する熱量も下がってしまったんです。「これは良くないな」と思いました。

しかし改めて「自分ができるようになりたいと思っていたことはなんなのか」を考え直しました。考えた結果、自分にとっては「中国語」が重要なものでした。この時に他の言語を勉強するのはやめて「中国語一本」で再度勉強を再開することになります。

このような自分の経験から、たくさんのことをやろうとせず「ひとつのことに集中する」ことの大切さを強く学びました。器用な人ならたくさんのことをまとめてやっても、こなしていくことができるかもしれません。しかし僕はそのようにやっていくことができませんでした。これは語学勉強に限った話ではありません。「全てのこと」に共通して言えることでした。

成長を実感しにくい人は、かつての僕のように色々なことに手を付けすぎてしまっているかもしれません。「ひとつのこと」に絞ることで成長は加速すると思います。

中国語没頭時代

「中国語一本に絞って取り組んでいく」と決意したからは、中国のことしか考えていなかったです。僕はいつも何かに集中すると、それだけを追求する特徴があります。

HSK、頑張ってみよう

中国語を勉強している中で「HSK」という中国語検定の存在を知ることになります。これは中国版TOEICのようなもので、世界中の人が受ける中国語検定です。「こんな検定があるんだ、取得できるように勉強していこうかな」と思いました。

「試験」のために勉強するとモチベーションが維持できるし、自分が今どの程度の能力なのかも理解しやすいです。「勉強の継続」を助けてくれたように思います。

この検定は当時1級~6級まであり、最高級は6級でした。以前から中国語の勉強をしていたので、すでに多少は中国語を理解していました。なのでまず参考書等で「どんな問題が出るのか」チェックして、その結果「3級」から受けてみようと決めました。受けてみた結果、すんなりと合格することができました。

勉強するたびに中国語の能力がアップしている感覚があってすごく嬉しかったです。

お客さんの会話を「リスニングの勉強」に

お店でも活用する場面は非常に多いです。最初は非常にぎこちなく、中国語を活用することもなんだか恥ずかしかったです。

しかし働きながら少しずつ活用をして、中国のお客さんの会話を聞いて「どのように発音しているのか」を学びました。「勉強→お客さんの会話を聞く→実践する」という過程を毎日繰り返す中で、自分の会話も上達していきました。中国のお客さんに「中国語話せるんだ、すごいね」「中国人かと思った」というように言われたこともあります。

かつて陸上をやっていた時は、いくら練習をしても成長している感覚をつかむことがなかなかできなかった。しかし中国語に関しては、成長を肌で感じることができました。

この感覚は人生で初めてのものでした。

「やっぱり継続すればできるようになるんだ」と実感できたタイミングです。

成功者はよく「継続しよう」と言うけれど、「継続の重要性」は自分で経験して自分自身で実感しないと、理解しにくいですからね。しかし「継続の重要性」がこのタイミングで強く理解できました。

HSK5級までは順調に合格していたけど・・・

そしてHSKの5級に挑戦してみました。空いている時間はほぼ全て中国語の勉強をしていたので、この時もすんなりと合格することができたんです。

しかし最高級の6級は問題の難易度が全く違かった。

勉強していても「これは留学しないとできるようにならないかな」と思っていました。なので留学やワーホリも何度か考えたことがありました。しかしそんなお金はありませんでした。働かない期間を作ることができなかったのです。なので引き続き独学で学んでいくしかなかった。

難しすぎてモチベーションが上がらず、しばらく中国語の勉強をやめていました。

難しすぎるとやっぱり続かないんですよね。笑

正社員になり、海外で働くことを目標に

僕は「契約社員」として今も勤めている服屋に就職しました。その中で、中国語を使いながら自分が好きな「服」に関われることが自分の人生の「生き甲斐」になっていました。

もっと会社の中で自分の力を発揮したかった。

僕の勤めている服屋はグローバル企業です。中国にもあります。なので僕は当時「中国のまだ店舗がない場所にお店を建てて、そこの店長として仕事をしていきたい」というような目標を持つことになります。

そのために、より一層仕事に力を入れるようになり「正社員になりたい」と感じていました。

そのタイミングで中国語に対する「熱意」は再び増しました。

やるしかなかったです。

HSK6級に向けての勉強を始めて、採用試験のための準備にも力を入れていきました。しかし採用試験に合格することはできませんでした。採用されなかった理由は面接官から見て「協調性が足りない」というようなものでした。

しかし諦めることはなかったです。自分の課題に向き合って行動を続けて、次回の採用試験で再度挑戦すればいいと思っていました。

人生のターニングポイント③:新型コロナウイルスの到来(自分軸で生きるために)

そんな中で誰も予想をしていなかったことが起こります。

新型コロナウイルスで大きく変わった「人生観」

それは「新型コロナウイルス」です。これは僕の3番目の人生のターニングポイントでした。

2019年の12月から広まり始め、2020年の1~3月には日本にも大きく影響を及ぼすことになります。

それまで、海外の方々でお店は毎日大繁盛していたにもかかわらず、1日を通してお客さんがほとんど来ない日々が数ヶ月続きました。「こんなことって起きるんだ」と思いました。「お店の家賃や電気代を払えないんじゃないか」と思ったほどです。

時間の流れがものすごく遅く感じ、会社で何かを達成しようと思うことができなくなりました。

「自分はここでいったい何をやっているのだろう」と自問自答する、そんな毎日でした。

それに加えて、僕が勤めている店舗は2020年の4月に長期休業になってしまいました。それは1ヶ月程度続きました。

僕はそのタイミングで「会社に雇われて働くことは自分の身を滅ぼすことになりかねない」と思うようになり、本気で学び始めることになります。

実際に会社からの給料もかなり減ってしましまいましたからね。

そして正社員として会社で働くことを諦めました。頑張らないようになりました。会社で全力を注ぐのではなく、「個人」で生きていくために何ができるのかを考えて行動する。そこに全力を注いでいくことに決意しました。

「自分軸で生きる」と決意してからの行動

この時期、つまり2020年4月から「自分軸で生きる」ことを強く意識するようになりました。

YouTubeでdaigoさんの動画やマナブさんの動画を見て徹底的に学びました。そしてAmazonで彼らが紹介している本を片っ端から購入して、どんなことが学べるか詳しくわかっていなくても読むようにしました。この時期に読書習慣は完全に身につき、今でも毎日読書はしています。

とは言っても、どのようにお金を稼げばいいのか一切わかりませんでした。

いや、そもそも会社に雇われることなく稼げるという事実すら知りませんでした。

とは言っても、SNSで何を発信すればいいんだ・・・

SNSに関しては当時カフェ巡りが好きだったので、カフェの写真を加工して投稿する程度でした。「毎日更新」とか、そのようなことも何もわかっていなかったです。なぜならこれまでの人生の大半が「陸上だけ」だったからです。そしてコロナ以前も仕事に夢中だったので、SNSに時間を使うことはありませんでした。人の情報を見ることもやっていなかったです。

しかし動画で学び読書で学び続けることで「自分の力で稼ぐことができる」という事実を知ることになります。

有名人だけではなくどんな人でもできる。

その事実を自分の目で確かめることができたので、「SNS発信を頑張っていこう」と思いました。

しかし顔出しする勇気がなかったし、動画で自分を撮って発信することなんて考えられなかったです。ましてや何を話していいかもわからない。動画を見ると「自分の頭で考えることが大切」と多くの人が言っていましたが、当時はその意味さえよくわかっていなかったです。「何を考えればいいんだ」と。

やっと合格できた「HSK6級」

それでも中国語の勉強は頑張りたかった。まずは中国語だろうと思っていた。「自分軸で生きるようになる」と思ってからは以前よりもさらに中国語勉強に力が入りました。

HSK6級の勉強記録。

自分軸で生きるきっかけになりました。
いい思い出です。

使っていた教材の一部。

自分軸で生きるきっかけになりました。

仕事ではできるだけエネルギーを使わず、自分の行動に力を注いでいくような生活がずっと続くことになります。

そして2020年の8月にHSKのテストを受けました。結果は下記のとおりです。

ギリギリでしたが、なんとか合格ラインの点数に到達しました。

結果です。

この時にようやく報われた感じがしたのを覚えています。この通知が届いたのは、仕事の休憩中で辺りを散歩している時でした。この通知が届いて確認した時に「あ、やっと自分で達成したいと思ったことが達成できた」という気持ちを持つことができました。本当に嬉しかった。点数が低いとかそんなことは関係ない。自分が言ったことが実現できたかそうでないか、それだけです。

最初に取り組んだ「発信内容」

試験日に近づくにつれ、中国語の勉強時間は増えていきました。確か休日は7時間ほど勉強していたような気がします。

そして僕は勉強する時に、ほぼ毎回iPhoneの「タイムラプス」で撮影をしていました。SNS発信で何を発信していいのかわからなかったので、まずは勉強記録として毎日動画や文章を投稿しようと思ったのです。

その一部の動画はこちらになります(スムーズに見れなかったらすみません)🔽

https://www.facebook.com/share/v/wqhYDgdmjyFG1i6J/?mibextid=KsPBc6

https://www.facebook.com/share/v/MYZVg4Qk8Q5bfQKT/?mibextid=KsPBc6

本格的に僕が発信活動を始めたのはFacebookです。毎日並行して発信活動もしていたのですが、多くの中国の方からコメントをいただいていたのを覚えています。

そして僕が働いているお店にも中国の方々が多いため、当時たくさん友達ができました。その中で休日に一緒に本屋に行ったりカフェで中国語を教えてもらったり、発音や文章のミスをチェックしてくれたりしました。中国語のレベル上がった大きなきっかけです。本当に感謝です。

初の中国旅行でのぼったくりエピソード

ちょっと話はそれてしまいますが、僕はコロナ以前に中国の上海へ旅行に行ったことがあります。

旅行は基本1人で行くのですが、初の中国旅行でぼったくりの被害に遭ったんですね。初だったので何もわからず、声をかけられた人に「一緒にご飯食べに行かない」と誘われてついて行ってしまったんです。友達になれるかもしれないという思いがありました。

そうしてご飯をたべたりお酒を飲んだらとんでもない金額を請求させられた。確かその時の金額は日本円で10万円を超えていました。

僕はそこまで流暢に話せなかったので、わからないところが多く、中国の知り合いにすぐ電話をして助けてもらいました。半分酔っ払いながらその場からすぐに立ち去り、その間もその知り合いは電話を切ることなく、僕に声をかけ続けてくれました。その間に「やべぇ俺完全に騙されてんじゃん」と理解できたんですね。お金は一部払ってしまっていました。

翌日その知り合いからWeChat経由で連絡が来ました。僕は「助けてくれてありがとう」としか言っていなかったのですが、日本円で10,000円程度のお金を送金してくれていたんです。「お金なくなっちゃったと思うからこれ使って」と言って送金してくれました。しかし僕は日本に住んでいて中国の銀行カードも持っていなかったので、送金してくれたお金を使うことはできなかったのですが。

中国の方々から感じた「人間味溢れる優しさ」

SNS発信での中国の方々の多くのコメント、そして自分のエピソードも踏まえて、中国の方々は本当に人間味が溢れていて優しい人が多いなと思ったんです。中国語を教えてもらわなければHSKで6級まで合格することはできなかったし、SNSでコメントをたくさんいただけたからこそ勉強も頑張れた。そして、ぼったくりの被害に遭った時の人に対する気配り。そこまで温かい人間性に触れたことがなかったので心から嬉しかったんです。

だからこそ中国SNSを活用して発信をすることになったんです。

不特定多数ではあるけれど「今度は自分が中国の方々にできることをやっていきたい」と強く思ったんです。実際、物心ついてからは目的はいつも「中国」にありました。仕事に対してモチベーションが高かった時は「中国のお店で店長をやりたい」と思っていました。それが自分自身の発信活動で「できることをやっていきたい」という考えに変わっただけです。

会社に依存しないようになったのは、先述したように「身を滅ぼしかねない」と思ったためです。自分で稼ぐ力をつけないといけない、しかしそれにはタイムリミットもあるということを強く感じていました。

「発信活動」と「読書」に本気で向き合い始めた時代

勉強は本当に大切です。勉強をしないと人は成長していきません。しかし、勉強だけでは生活そのものの変化を生み出すことはできません。なのでここからは「発信活動」に注力することになりました。とは言っても知識は常にインプットしていかないといけない。学びは「本」から得ることにしました。

本業の勤務時間を減らしたタイミング

中国語の勉強時間を格段に減らしました。「読書」と「発信活動」に多くの時間を使うようになったのです。そして仕事ではなるべくエネルギーを使わないような環境に自分の身を置き、できることを最低限やるという行動の仕方に変更しました。

そして勤務時間も8時間の契約時間を7時間半に変更しました。30分短縮したところで生活に支障が出ることはありませんでした。それに仕事の時間を30分減らせば、休憩時間も30分減らせる状況だったのです。つまり1時間の時間を作り出せます。仕事時間を減らしたことで生まれる給料の違い以上に「時間」が圧倒的に重要だと思いました。時間はお金で買うことはできません。さらに時間を確保しなければ「自分軸で生きるための行動」はできないですからね。

自分の体はひとつ。どんなことも全力でやっていたら肝心なタイミングで力を発揮することができなくなります。同じ職場の人にどう見られようが関係なかった。そんなことはどうでも良かったのです。それよりも自分の行動に集中したかった。なぜなら人生を賭けているからです。自分の行動によって人生の道を開拓しなければ後の人生で後悔する。こうやって常に思っていましたし、今でもこの気持ちは変わりません。

「BiliBili」と「小红书」で発信活動開始

上記の理由によって2020年の12月から中国版YouTubeであるBiliBiliを始めることになりました。そして動画編集を本気で頑張りたいと思ったので、この時期にMacBookを購入しました。ノートパソコンを触ったのは、これが人生初です。どうやって使えばいいのか理解するまでに苦労しました。

2021年の2月には、中国SNSの小红书を始めました。実は小红书を始めたきっかけは「中国の友達」にあります。「中国の若い人みんなやってるから始めてみて」と言われたので、小红书で発信することになりました。

✓リンクを貼っておきますが、見れなかったらすみません

BiliBiliチャンネルはこちらです。

https://space.bilibili.com/628599352

小红书はこちらです。

https://www.xiaohongshu.com/user/profile/5f15905700000000010042ad

小红书の初投稿です。

https://www.xiaohongshu.com/explore/60381e160000000021035092

小红书でバズった内容です。

https://www.xiaohongshu.com/explore/61b683120000000021035d76

試行錯誤を繰り返した「SNS発信」

BiliBiliも小红书も2年以上発信していました。特に小红书では毎日発信をしていました。

毎朝50分程度時間を作って、中国語で文章を作成することを習慣にしていました。どうなるかはわからないけれど、とにかく発信することに必死でした。最初は日本語についての発信をしていました。しかし僕よりも上手に教えている人はたくさんいたし、自分がそこまで「楽しい」と思うことができませんでした。その次に日本文化の中で感じる「違和感」について発信するようになりました。この「違和感」の存在に気づいたのは自分で学び行動するようになってからです。

日本は素晴らしいところで僕自身は純粋な日本人です。しかし「どうも日本はおかしいな」と思い始めたんです。その疑問は今も残っています。おそらく、一生かけてもなくならないでしょう。

例えばなんでほぼ全ての人はみんなと同じような行動しか取らないのか。あるいはなぜ、口では不満をたくさんいうにもかかわらず、本気で改善しようと行動しないのか。このような種類の違和感です。誰もまともに答えることができないような内容ですよね。

発信と並行して岩波文庫を読むように

当時、YouTubeで動画を見ている中で「哲学を学ぶことで疑問が晴れてくるのかもしれない」という結論にひとまず到達しました。そこから発信活動と並行して哲学書も読むようになったのです。その時に「岩波文庫」に出会うことになります。自分の疑問に対する答え合わせのつもりで読んでいました。今でも僕の良き相談相手です。

こんな感じで学んでいたので、その学びを「動画を通して発信していきたいな」と思いました。そしたらものすごく反応が良かったですね。BiliBiliでは、ある自分の動画が40万回以上再生されたこともあります。

その動画が下記の動画です(見れなかったらすみません)

https://www.bilibili.com/video/BV1hq4y1L7Wc/?spm_id_from=333.999.0.0

フォロワー10万人越えにつながった発信内容

しかし、文化や歴史に関しては個人の考えが強く影響してきます。中立的に考えることができない人も一定数存在します。実際「文化」に関する発信をしていた時は、誹謗中傷がものすごく多かったんですよね。若干身の危険すら感じたので、やめることにしました。僕は自分の発信から「討論の場」を作りたいわけではなかったから。

そして何をやろうか改めて考えた結果、自分の生活習慣に関しての内容や、本から学んだ内容など、「生活を良くしていくようなアドバイス」を発信することになりました。そのような発信が中国の方々に好評だったようですごく反響がありました。これらの内容は主に小红书で発信していました。

フォロワーもぐんぐん増えていったので「10万人を目標に頑張ろう」と思いながら、日々発信をするようになりました。バズることも何度かあり、返信しきれないコメントが毎日のように来ていました。そして誹謗中傷めいたコメントもほとんどありませんでした。

大学も卒業せず、これといって優れた能力もなかったにも関わらず、こんなに多くの方が見てくれるということが嬉しかったです。

「インターネットの世界では学歴って全く関係ないんだな」と思いました。やればやるだけ結果として返ってくる。それがインターネットの世界だと思うのです。

フォロワーが12万人を超えても、一向に収益化にはつながらず・・・

このような成功体験を積み重ねることができるからこそ「本当の意味で」楽しむことができたと思ってます。そして苦しいという感覚を持つことなく継続できるようになりました。達成感を得る場所がどこにあるのかは誰にもわかりません。僕も中国SNSを始める前に、まさか中国SNSでこんなに反響が生まれるなんて思ってもいなかったです。今現在(2023.12月)フォロワーは12万人を超えています。

しかし一向に収益化をすることはできませんでした。2年以上続けたにも関わらず収益は0のままでした。「なんでだろう」と思って色々調べてみた結果、「中国SNSだから」ということがわかりました。中国はインターネットの規制が非常に厳しいので、国を隔てて収益を生み出すことがほぼ不可能でした。

中国の方々に役に立つ内容を提供することはできるのかもしれません。しかし、これでは自分の生活が一向に変わっていかないと思い、一旦中国SNSでの発信を中断することにしました。

しかし中国SNSで発信を続けたことによって、言語化することが習慣化しました。発信することが生活の一部になりました。学べることが非常に多かったです。

TikTokで、頑張ろう|おすすめの「動画撮影機材」

その後はTikTokで動画を発信するようになります。

下記が僕のアカウントです。

やはり今は動画の時代です。そう思って日本の人たちに向けて自分ができることをやっていこうと思いました。

再生回数だけで言うと下記の動画は反応が良かったです🔽

https://vt.tiktok.com/ZSNxLSSHE/

https://vt.tiktok.com/ZSNxLkua9/

2023年の初めに、TikTok動画を頑張ろうと思いました。なので下記のような機材を準備しました。本気で取り組むためには、機材にお金を使うことは避けられない、そう思っていたからです。しかし何を使えばいいのかもわからなかったので、機材に関してもYouTubeやGoogleで調べました。

その結果「高品質な動画」を作るために見つけた機材が下記のものです。これらがあれば満足できる動画をとりあえず作ることができると思います。僕も動画を撮る際は使用していますが、めちゃくちゃ重宝しています。数ある機材の中では、値段も比較的安いです。動画を撮って投稿してみたいと思っている方は、参考にしてみてください。

カメラ🔽

https://amzn.asia/d/a5Uwxsv

マイク🔽

https://amzn.asia/d/9rNzxmg

グリーンバック🔽

https://www.amazon.jp/dp/B08YJBL61G?ref=ppx_pop_mob_ap_share

照明🔽

https://www.amazon.jp/dp/B0785GWPPN?ref=ppx_pop_mob_ap_share

照明のバッテリー🔽

https://www.amazon.jp/dp/B09V57W9SZ?ref=ppx_pop_mob_ap_share

三脚🔽

https://amzn.asia/d/43jX1Ug

しかし手応えを掴むことができず、2023年8月に一旦動画作成を中断しました。

𝕏で、頑張ろう|「自分軸で生きる方法」を発信する理由

TikTokでの動画発信を中断してからは、𝕏で本格的に発信をするようになります。今現在(2023.12月)取り組んでいることです。

𝕏では「自分軸で生きる方法」を発信しています。なぜならそのような生き方をしていくことが自分の目標だからです。そして今の日本に足りない部分でもあると思ってるから。普段の生活を見ていても、「自分軸で生きる」ことをせず、他人に依存していたり、他人に流されている人が非常に多い。そして、その状況を楽しんでいるようにも見えないんです。これでは幸福に生きることができない。「自分軸で生きる」と考える人がもっと増えてほしい。そのような願いがあります。

たったひとりの凡人である僕が、日本を変えることなんて到底できません。しかし小さな場所からでも「自分軸で生きる」方法を、自分の学びや実践していることから伝え続けることはできます。そして伝え続けることをすれば、情報が広がっていくと思っています。情報が広がっていけば「自分軸で生きる」と考える人がもっと増えると思うし、そのように生きていく方法も理解できるようになると思うんです。

「自分軸で生きる」ことが「自分の人生の幸福」につながり、「自分の幸福」が「自分以外の人」に幸福をもたらす。そうすればもっと生きやすい世の中になると思うんです。

このように生きていけることが、僕の生き甲斐でもあるんですね。やっていて楽しいんです。

WordPressで「学べるブログ」を開設することに

そしてTikTokを中断してから1ヶ月後にWordPressでブログを開設することになります。

実は以前からブログはやりたいと持っていたのですが、なかなか行動に起こすことができていませんでした。

しかしブログは資産になる。流れて消えていくものではありません。

上記の理由に加えて「自分は何者なのか」を伝えていきたいという理由も込めて「ブログをやろう」と決めました。

また、僕は文章を読んだり書いたりすることが好きなんです。

大切なのは「自分が好きかどうか」だと思います。自分が好きならどんなに大変でも継続できる!

そう思ってます。

ブログを開設したのは2023年9月14日です。

先述した通り「生きていくため」にも、個人で収益化をしていかなければいけない。それに収益が増えれば、もっと自分の活動を広げていくことができる。「始めない」という選択肢はありませんでした。そして、始めたらやり続ける。これも自分の中で常に意識していることです。

ようやくこの時が来た!0→1達成の瞬間

そんな中で、2023年の11月20日にようやくようやく0→1を達成することができました。僕は中国SNSをやっていた頃から「収益化をしたい」と思っていました。しかしこの時まで一切収益化をすることができず、その中で毎日発信を繰り返してきました。約2年半以上かかってしまいましたが、ようやくスタートラインに立てたわけです。

これが「人生初!0→1達成の瞬間です🔽

収益化達成できたタイミングです

Google AdSenseにも一発合格しました🔽

一発合格できました。

ブログ開設から2ヶ月と6日で収益化することができました。収益化できたこと自体が非常に嬉しかったです。「自分自身の行動でやっと1円を生み出すことができた」そう思い、素直に喜ぶことができました。

HSK6級の合格、小红书でフォロワー10万人突破、個人で収益化達成。人生で3度目の「自分の目標を達成できた瞬間」でした。今後もこちらの『学べるブログ』で「自分軸で生きる方法」は定期的に更新していきます。

毎日更新することはできないですが、毎日コツコツ執筆してます。

僕が「自分軸で生きる」と決めた《大きな》理由

幼少期からの重要な記憶を辿りながら書き出してみました。このような出来事の中で考えつつ、行動を変化させてきたということになります。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

僕のエピソードから、「自分自身と向き合うきっかけ」を見つけていただければ幸いです。

さて、僕が「自分軸で生きる」ことを人生の目標とし、このような行動をしている理由について少し深掘りをしていきたいなと思っています。なぜならこれからお伝えをしていく内容が、自分を奮い立たせ、行動をやめない原動力の一部になっているからです。

深掘りをしていくためには、僕の「父」と「祖父」について書いていかなければいけません。

まず前提として、僕は人に恨みを持つことは一切ありません。むしろ金銭的に厳しい中でもここまで育ててくれたことに対して感謝しています。周りに流されないような人間に育ててくれたことに感謝しています。しかしそれでも「父」と「祖父」を好きになることはできなかったのです。いや、「嫌いになった」と言った方が正確かもしれません。「絶対にこんな大人にはならない」と思っています。

父のエピソード

父に関しては僕の幼少期時代の中でも少し触れました。

こちらでもう少し詳しく解説していこうと思います。

パチスロ好きで暴力を振るっていたこともあった父

パチスロが好きな人間でした。そして僕が成長してからはなくなったものの、暴力で何かを解決しようとする人間でした。僕も暴力を振るわれましたし、弟や母親に暴力を振るってもいました。その光景は今も覚えています。

暴力をしなくなったのは僕や弟が成長して物事の分別がつくようになった時、母と一緒に説得したことが原因です。「暴力では何も解決できない」と。そのような話を繰り返してようやく手を出す回数が減っていきました。

そして、「物を与えたり美味しい物を食べに行くだけで良い」というような考えしかないのではないか、そう思ったタイミングが非常に多かった。

確かに物を買ってくれたり美味しいものを食べさせてくれたことは嬉しかったです。しかし、やはり信頼し合うためには「物」では解決することができない。「行動」で示していかなければ信頼してもらえない。行動で示してくれることがほぼなかったんです。だからこそ僕は、人は自分という「人そのもの」が変わっていかなければ、何も変わっていかないと強く思うようになったんです。

それ以外では問題を解決することはできません。全てその場しのぎになってしまいます。

お金に対してルーズ、2ヶ月以上「水風呂生活」を経験するハメに

また、僕は「人生」について父親とまともに会話をしたことがありません。そもそも日常会話すらそこまでしていなかった。なんだか話しにくかったんですね。なんでもないことを話したり、自分が何を考え生きているのか、そのようなことを話すのは全て「母親」でした。今もそうです。信頼できる人は母親しかいないですから。人に頼らない人生を送らざるを得ませんでした。

また、お金の扱いが非常にルーズだった。先のことは一切考えずにお金があれば湯水の如く使ってしまう。そしてほとんどなくなり働いて稼ぐ。そして稼いだお金をまた全て使ってしまう。その日暮らしの生活をずっと繰り返していました。そして最初に払うべきもの、例えば公共料金などを払わないことが非常に多かったんです。

あまりにも払わなくて2~3ヶ月ほど水風呂で生活していたこともあります。

そしてお金の話をすると決まって出てくる言葉は「金なんてねぇ」でした。僕は一人暮らしをせずにずっと家族と一緒に生活をしていますが、僕が25歳までお金の異常なまでの管理の悪さは改善されることはりませんでした。さらに、家にいても何をするわけではなく、仕事から帰ってきたらコンビニで買った弁当やカップラーメンを食べて、お風呂に入って寝るだけでした。

父と別々に暮らすことで「自分の力」をつける

仕事の関係上、もうずっと昼夜逆転の生活をしていて、仕事が大変なのは理解できます。しかし家族に対して何かをするということがほとんどなくなってしまっていたんです。それらのことによって家族は呆れ果ててしまいました。家族会議もしたりしましたが、話している時も父はすぐに怒る。すぐに頭に血が昇ってしまうような人間です。話にならないことも比較的多かったです。

結局、父親は実家でそのまま生活をし、僕と母親は別の場所で賃貸で生活をしています。この生活スタイルは今もなお継続しています。努力して、生活を良くしていきたいと本気で思って行動しているにも関わらず、水道やガスがいつ止まるのかもわからない状況の中で生活することはできなかった。

力をつけようと思っても、心配事が多く成長すらできない。

なので一旦離れて生活しようと結論づけたのです。離れれば僕が責任を持つことになる。その中でなら成長していける。そう思ったからです。

僕は物心ついた時から父親が嫌いでした。絶対に父親のように子供を困らせるような大人にはなりたくないと思っています。

父のいいところ

とは言っても、両親はかなりさっぱりしています。別々に暮らすことにマイナスなイメージを抱いているわけではありません。両親からしてみれば、今は一緒にいたくないから別々に暮らしている、ただそれだけのことで深刻に捉えてはいないんです。それぞれが「離婚する必要はないよね」というふうに考えています。

しかし父は悪いところだけではないということも理解していました。これは母親に聞いた話なのですが、僕の父親は何度も自分でお店を開いたりしていました。僕の記憶にも「父が居酒屋を経営していた」というような記憶があります。

そして非常に行動力が早かったそうです。例えば母親が「〜のお店をやりたい」と言った時、翌日にはその準備を済めせて「じゃあやるか」みたいなスピード感で行動していました。後先考えずまずは行動をしていた。しかし下調べを一切せずにそのような行動をしてしまっていたので、経営し始めても軌道に乗せることができなかった。なので今は、自分で何かをやるということをしていません。

それに自分が「こうだ」と思ったことは曲げず、自分の考えをはっきりと持っているような人でもあります。しかし僕や弟にそのような「かっこいい姿」を見せてくれることはありませんでした。全て母から聞いた話です。もう僕も大人になったことだし、今度真剣に話をしたいと思っています。

そのような生活にしていくために、僕自身が行動をしていかなければいけない。

祖父のエピソード

僕は小さい頃、祖父のことが好きでした。一緒に田舎へ行ったり、電車が大好きだった僕と一緒に電車を見に行ったことも覚えています。手をつないで一緒に歩いていました。この記憶も残っています。

あの人にお金を渡し続けていたの!?

しかし僕は当時小さかったので、何もわかっていなかったのですが、僕の祖父はある女性にお金を渡し続けていました。もう20年以上です。そしてクレジットカードも勝手に使われ続けていました。僕はその女性のことを実際に見たことがあります。ここ最近の話ですが、カードの利用額がとんでもないことになってしまっていたので、家族総出で話し合いをしたりもしました。

カードの残高は「僕たちが」全て払って、利用停止にしました。

僕は大きくなってこのような問題がずっとあったことを知りました。だからこそ、祖父は家族の中でもあまり相手にされないようになってしまいました。何十年と説得をしても改善されず、お金を貢ぎ続けていたのです。しかし本人はそれに対して全然悪びれた様子はない。

何度も何度も助け舟をを出しているのにそれに乗らなかった。舟にも限りがあります。家族だとしても限度があると思うんです。

ただのご機嫌取り

そして84歳になったにも関わらず資産はほぼ所有していません。挙げ句の果てには子供や孫に「お金を借してくれ」と言う始末です。直接問題の女性と祖父が対面した中で家族間で話し合いをしたこともありました。それでもカードの問題が解決しただけで、今だに会って年金を渡し続けています。もはや長い付き合いで友達だと思っているのなら、会ってもいいのです。でもなんでお金を渡すのか、決まって言う言葉が「昔借りたから」です。

そしてお金がないことを僕たち家族のせいにしている。もう無限ループです。

説得しても会話にならないので、問題を解決しようとも思わなくなってしまいました。完全に「洗脳」されているんですよね。祖父は彼女と友達だと思っているし、彼女も祖父とは「長い付き合い」と言っているものの、彼女の方は本心でどのように思っているのかは分かりません。

僕には「祖父の機嫌を取れば祖父がお金を渡してくれるから仲良くしているだけ」としか思えないのです。

孤独はつらい、だけど・・・

しかしなぜこのような人と付き合うようになってしまったのか。

知り合うことになった原因は聞いたことがないのですが、以前母親は「お母さんが亡くなってからちょっとおかしくなった気がする」と言ったいました。つまり僕の祖母になります。祖母は僕が生まれる前に病気で亡くなっていました。なので僕も直接会って話したことがありません。

聞いた話によると、僕の祖父と祖母は本当に仲が良かったそうです。よく旅行をしていたという話を聞いたことがあります。しかし早いうちに亡くなってしまって祖父は「孤独」な時間が非常に多かった。

年配の方々は年配の方々同士で、全く知り合いじゃなくても気さくに話をしている姿をよく見ますよね。僕の祖父も例に漏れず誰とも話すことはできるんです。しかし仲良くなって誰かとどこかに行ったりすることはありません。

そして読書などの趣味もなく、何かに集中することができない。全て母から聞いた話になてしまうのですが、仕事以外は何もやってこなかったそうです。だからこそ、孤独になった時に自分を守ってくれるものがなかった。その結果「お金」のことしか考えていないであろう人物と付き合うことになってしまったのだと思います。「人が本当は何を考えているのかを考える能力」に欠けていた。そのように感じます。

祖父から学べること

家族間の問題は難しいです。多く存在する「事情」を考えると、家族間で思いっきり踏み込んで強制的に全てを解決させることはできません。しかし祖父から学べることがあると感じています。

✔️それは下記の通りです

・仕事人間になってはいけない

・たくさんの趣味を見つける

・自分が没頭できるものを見つける

・自己研鑽を続ける

・安易に人を信用しない

よくない状況に陥ってしまっている時は、本人はそのことに気づけません。僕の祖父を見ていればそれは分かります。それに、過去の主体的な行動の積み重ねがない中で年齢を重ねてしまうと、何かを変えることはできなくなります。主体的な行動によって変化が生まれてきますが、「脳の機能」と「体力の低下」によって、主体的な行動をしようと思えなくなるからです。

だからこそ、若い時に「自分軸で生きる」ことが重要だと感じているんです。それは自分自身の未来のためです。

自分が善く生きていれば、周囲にも良い影響を与えることができると思っています。

僕自身は、家族に迷惑をかけてはいけないと日々感じています。

とは言っても今も元気に一人で自転車に乗って買い物もできます。僕たちに影響を及ぼさず、本人が楽しんでいるならそれ良いのかなと感じているところです。どんなことがあったとは言え祖父にできることをしていきたい、そう思っています。そのためにも、僕が「変化」していかなければいけません。

中卒の弟が経営者に

これらの問題はごく一部です。

このような行動をしている人が近くにいるからこそ、行動を継続しなければいけないし、自立した人間でなければいけないと強く思うようになりました。僕が怠惰な行動をしていたらこのような家族間のよくない状況は解決できない。僕は家族のこんな状況をまずはどうにかしていきたいんです。みんなで暮らして、笑顔で会話をしたい。真剣に会話をしたい。

お金持ちになりたいとか、良い物を買いたいとか、僕にとってはどうでも良いことです。僕自身に与えられた使命だと思っています。だからこそ自分軸で生きると決意したし、会社に依存している場合でもないんです。会社の中でワイワイ楽しく仕事をしている場合でもないんです。

弟が最近、自分で建設業の会社を経営するようになりました。彼は中卒で高校には行っていません。根っからの勉強嫌いで泣きながら勉強をしていました。中学時代は散々悪さもしていました。それでも、経営者になっているのです。

家族の夢を自分の夢に

学歴は重要ではありません。学歴は「おまけ」です。マックのハッピーセットです。ハッピーセットではお腹を満たすことはできません。だから学歴がなくても心配しないでください。大丈夫です。

大切なのは何かを変えたいと強く思いつつ、自分で考え行動することなんです。レールの上に個人の答えはありません。

兄弟で家族の状況をいい方向に持っていく。そして母が以前に言っていた「弁当屋を開きたい」という「夢」を叶えてあげたい。そんな未来を現実に変えることができたら、それ以上充実した生活はないと思うんです。

まとめ

大変長くなりました。最後まで読んでくれた方がいたら本当に感謝します。ありがとうございます。僕は「自分のためだけに行動している」という考えを持つことはほとんどなかったです。先述した通り、問題が多かったため、「自分のことだけを考える」というような余裕はなかったんです。本気で環境を変化させていきたい。それだけしか考えていませんでした。「自分軸で生きる」ことから逃れることはできませんでした。

自分軸で生きることの「メリット」と「デメリット」

得られるメリットは非常にたくさんあると思ってます。しかし「デメリット」もそれなりに多いと思ってます下記で僕が感じる「自分軸で生きる」ことの「メリット」と「デメリット」をまとめておこうと思います。

✔️自分軸で生きることのメリット

・周りに左右されなくなる

・人生に満足できる確率が高まる

・自分に自信が持てるようになる

・子供ができた時に「背中で」生き方を伝えていくことができる

・強く生きることができる

✔️自分軸で生きることのデメリット

・周りから誤解されやすくなる

・周りが「楽しい」と思ってることで楽しいと思えなくなる

・協調性が低下する(一時的なのかもしれないですが)

・人付き合いが減る(一時的なのかもしれないですが)

・孤独な時間が増える

・「全て」を自己管理しなければいけなくなる

上記は僕が思う「メリット」と「デメリット」です。ある人にとっては、僕が感じるメリットがデメリットになると思うし、その逆も考えられます。しかし僕はそんなことは考えられなかったのです。誰かに頼ることもできなかったし、自分が成長していく以外に、人生を良くしていく方法がなかった。だからこそ、これからも行動していかなければいけないと思っています。

過去の積み重ねがあるからこそ「今」強く生きることができている

これまでに紹介した全てのエピソードのおかげで、僕は自分から何かを始めたり継続することは一切苦ではなくなりました。むしろ僕にとっては「自分軸で生きる行動」が「遊び」であり「幸せを享受できる時間」です。

家族間でいろいろなことがあったし父も祖父も信頼はしていません。それでも、もう一度みんなが同じ家に住み、かつては強く感じることができなかった「笑顔」や「会話」が絶えない生活をしていきたい。

自分以外がどんな状況であれ、自分が変われば「変えたいこと」は変えていける。そう信じています。「他人依存」で生きることはやめました。ただただ虚しくなるだけです。そして僕は会社や時間に拘束されず自由に生きていきたい。それが幸せな人生になり得るから。

引き続き学び、行動し続けていきます。過去や今がどんな状況でも「自分軸で生きる」ことはできます。

誰にでも人生を好転させていける機会があります。

そのきっかけを「学べるブログ」で見つけていただければ幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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